将棋局面|木村義雄 vs 花田長太郎 1937-12-05 名人戦|危なそうな好手 昭和12年、木村が実力制で初めての名人となる
1937-12-05第01期名人決定大棋戦千日手指し直し局
「木村義雄八段」vs「花田長太郎八段」
「名人決定大棋戦」という表現が古めかしい。
昭和12年に実施された初の実力制名人決定戦だった。4六の銀を△5五銀と引いたところ。
先手木村義雄に大胆な手が出た。
▲2六飛
危なそうな好手 昭和12年、木村が実力制で初めての名人となる
5八飛だと5六歩と打たれてまずそう。後手には4五桂の援軍がある。
とはいえ▲2六飛は大胆な手。6六銀の王手があるではないか。
2図で6六銀だと、5六銀、4五桂、5八歩で大丈夫ということらしい。▲2六飛は危なそうな好手だった。これが成立したのは後手にとって痛く、このあとが大変になったのだ。後手は3三桂と跳ねているのが悪形である。
2図以下△5六歩 ▲5八歩 △1四歩 ▲6八金 △1三角▲6九玉とゆっくりした流れになったが、後手は駒組みに苦心することになった。
この後、先手は7八玉型にして金銀で中央を制圧した。先手圧力勝ち、といった内容だった。
木村義雄八段はこれに勝って、実力制で初の名人になった。2月に有名な「南禅寺の決戦」で坂田三吉を下し、その10か月後のことだった。
第一期名人決定大棋戦を理解するのに私は苦労
昭和10年に関根金次郎十三世名人が引退し、実力名人戦がスタートした。
「第一期名人決定大棋戦」は、今で言えばA級順位戦のようなリーグ戦が行われたわけだが、私にはどういうものか理解するのが大変だった。
リーグ戦のメンバーは、土居市太郎、大崎熊雄、金易二郎、木見金治郎、花田長太郎、木村義雄、金子金五郎、神田辰之助、萩原淳ら八段。といっても、当初は7人だったのに、途中で神田、萩原が入って9人ということになった。
2人の参加をめぐって途中で”分裂騒動”が起こるというグチャグチャしたものだった。現在の日本将棋連盟のように組織が定まらないから、面倒な時代だった。それにしても途中で2人増えるなんて。
リーグ戦は昭和10年から12年の3年もかけて行われた。同一カードで先後入れ替え2局戦った。何とも長丁場であった。大崎八段は病気でリタイアしてしまった。
持ち時間が、棋譜を見るとその対局により異なる。11時間、12時間、13時間、あれれ?なんで違うんだろ。いずれにせよ長い。今ニコニコ生放送でやったら大変だろう。
そもそも規約が妙なものだった。まず、リーグ戦をやっているのに、他の棋戦の成績までポイントに加えるというものだった。また、1位2位のポイント差が8点に満たないと、両者で六番勝負を行う。六番勝負?七番勝負じゃないの? 六番勝負が3-3なら1位が名人になるという規約。あくまでリーグ戦の成績重視というわけなのか、それなら他棋戦の成績がポイントになるのは矛盾しているようで理解しがたい。
結局この一戦が終って両者2敗となったが、木村八段の他棋戦の好成績がものをいって8.1ポイント差となった。規約により六番勝負は行われなかったのである。
規約などいろいろ釈然としない点はあるが、改定を重ね現在のタイトル戦があるのだろうとしみじみと思う。